東あがりー江御うどぅん殿の北きたのほうに,西にし原はらの人ひと々びとが,尚しょう円えん王おうをまつるための神しん殿でんを作つくりました。これを西いりー江御うどぅん殿とよんでいます。王おう府ふはここにも御う殿どぅん守むいをおきました。東あがりー江御うどぅん殿の周まわりは,王おう府ふが竹たけ垣がきをつくらせていましたが,数すう十じゅう年ねん後ご,これを石いし垣がきにつくりかえます。東あがりー江御うどぅん殿,西いりー江御うどぅん殿と2つのいのりの場ばがある内うち間ま御うどぅん殿は,200年ねん近ちかく,琉りゅう球きゅう王おう国こくの聖せい地ちとして使つかわれていました。建たて物ものは,戦せん争そうで焼しょう失しつしましたが,戦せん後ご,西にし原はらの人ひと々びとによって建たて直なおされ,現げん在ざいでは,地ち域いきのいのりの場ば所しょに使つかわれています。金かな丸まる,内うち間まの領りょう主しゅとなり,内うち間まを治おさめる金かな丸まる,王おう様さまとなり尚しょう円えんと名なのる年ねん号ごう1454年ねん1470年ねん1666年ねんごろ尚しょう質しつ王おう,金かな丸まる(後のちの尚しょう円えん王おう)が住すんでいた場ば所しょにかやぶきの建たて物ものをつくらせる(東あがりー江御うどぅん殿)1679年ねん1689年ねん1706年ねん1737年ねん1738年ねん1945年ねん1951〜74年ねん2011年ねん東あがりー江御うどぅん殿では,王府が御うどぅん殿守むいとよばれる役やく人にんを置おいて,田たや畑はたけで取とれた野や菜さいや麦むぎ,米こめの穂ほを首しゅ里り城じょうに献けん上じょうしていました。王おう府ふの命めい令れいで東あがりー江御うどぅん殿のまわりに竹たけ垣がきをめぐらせる王おう府ふの命めい令れいで,東あがりー江御うどぅん殿を修しゅう理りし,瓦かわらぶきの建たて物ものにつくりかえる西にし原はらの人ひと々びとによって,西いりー江御うどぅん殿がつくられる(かやぶきの建たて物もの)王おう府ふの命めい令れいで,西いりー江御うどぅん殿を瓦かわらぶきの建たて物ものにつくりかえる東あがりー江御うどぅん殿の近ちかくに石せき碑ひを建たて,本ほん門もんに扁へん額がく「致ち和わ」をかかげさせる沖おき縄なわで戦せん争そうが行おこなわれ,東あがりー江御うどぅん殿,西いりー江御うどぅん殿の建たて物ものが焼しょう失しつする焼しょう失しつした東あがりー江御うどぅん殿と西いりー江御うどぅん殿を西にし原はらの人ひと々びとが建たて直なおす国くにの文ぶん化か財ざいに指し定ていされる ■ウ 内うち間ま御うどぅん殿 整せい備び年ねん表ぴょう ■エ 現げん在ざいの東あがりー江御うどぅん殿(提てい供きょう:西にし原はら町ちょう文ぶん化か課か) ■オ 現げん在ざいの東あがりー江御うどぅん殿できごとの内ない部ぶ231
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