国こく王おうや王おう府ふの指し示じで,建たて物ものをつくったり,尚しょう敬けい王おうが自みずから文も字じをかき,扁へん額がくをつくら修しゅう理りしたり建たて直なおしていました。初はじめ,西いりー江御うどぅん殿は,西にし原はらの人ひと々びとによってつくられました。東あがりー江御うどぅん殿と西いりー江御うどぅん殿が沖おき縄なわ戦せんで焼しょう失しつした後あとも,西にし原はらの人ひとたちが力ちからを合あわせて,建たて物ものを作つくり直なおしました。何なん回かいも作つくり直なおすほど内うち間ま御うどぅん殿のことを気きにかけていたんだね。た)を建ね根や殿(かやぶき屋なおて直ね根やトタンぶき屋 ■エ 扁へん額がく「致ち和わ」 ■ウ 東あがりー江御うどぅん殿の本ほん門もん(戦せん前ぜん・美ちゅら島じま財ざい団だん提てい供きょう)この門もんに王おう直じき筆ひつの扁へん額がく「致ち和わ」がかかげられた内うち間ま御うどぅん殿を守まもるための役やく人にん(御う殿どぅん守むい)は,王おう府ふが任にん命めいしました。御う殿どぅん守むいは,取とれた野や菜さいや麦むぎ,稲いねの穂ほを首しゅ里り城じょうに献けん上じょうしていました。●地ち域いきの人ひとにも大たい切せつにされていた聖せい地ちだった年ねん号ごう1945年ねん1951年ねん1960年ねん1974年ねん ■オ 戦せん後ごの内うち間ま御うどぅん殿整せい備び年ねん表ぴょうせんなわおき縄沖戦うどぅんあがりー江御東いりー江御西あがりー東江御うどぅんうどぅんあがりーうどぅんいりーうどぅんぞう造江御江御殿と西で,東殿(トタンぶき屋根),西ねもく根殿を木や殿をトタンぶき屋のブロックづくりに作りかえた。うどぅんなおて直した(沖おき縄なわ県けん立りつ博はく物ぶつ館かん・美び術じゅつ館かん提てい供きょう)できごと殿が焼失したいりー江御たに建した●琉りゅう球きゅう王おう国こくの王おうとのつながりが強つよい聖せい地ちだったせ,本ほん門もんにかかげさせました。233
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