春しゅん潮ちょうは,1955(昭しょう和わ30)年ねんから1958(昭しょう和わ33)年ねんの間あいだ,沖おき縄なわで発はっ行こうしている新しん聞ぶん,沖おき縄なわタイムスに「沖おき縄なわ民みん俗ぞくの歴れき史し」を連れんさいしていました。そして,1959(昭しょう和わ34)年ねん,『沖おき縄なわの歴れき史し』を出しゅっ版ぱんしました。春しゅん潮ちょうが74才さいのときでした。春しゅん潮ちょうは,ひかえめで人にん情じょうに厚あつく,仲なか間まの研けん究きゅう者しゃにたくさんの援えん助じょをし尊そん敬けいされた人じん物ぶつでした。そして今いまも,沖おき縄なわ歴れき史しの研けん究きゅう者しゃとして,多おおくの人ひとたちに知しられています。※掟うっち加か勢しー…琉りゅう球きゅう王おう国こく時じ代だい,各かく村むらの行ぎょう政せい責せき任にん者しゃ(掟うっちという)の補ほ佐さを務つとめる役やく目めの人ひと(参さん考こう 『沖おき縄なわ大だい百ひゃっ比ひ嘉が春しゅん潮ちょうは,1883(明めい治じ16)年ねん1月9日,西にし原はら間ま切ぎり(現げん在ざいの西にし原はら町ちょう)翁お長ながで生まれました。春しゅん潮ちょうの父ちち親おやは首しゅ里り出しゅっ身しんの士し族ぞくで,翁お長ながの掟うっち加か勢しー※をしていました。作さく文ぶん,習しゅう字じ,算さん術じゅつの5科か目もくを学まなびました。卒そつ業ぎょう後ご,まずは沖おき縄なわ師し範はん学がっ校こうの付ふ属ぞく小しょう学がっ校こうに入にゅう学がくしました。そして1902(明めい治じ35)年ねん,師し範はん学がっ校こうに入にゅう学がくし,4年ねん後ごの1906(明めい治じ39)年ねんに卒そつ業ぎょうすると,すぐに南は風え原ばる小しょう学がっ校こうの先せん生せいになりました。さらに1915(大たい正しょう4)年ねん,29才さいで玉たま城ぐすく小しょう学がっ校こうの校こう長ちょうになりました。仲なか原はら善ぜん忠ちゅう,金きん城じょう朝ちょう永えいたちとともに「沖おき縄なわ文ぶん化か協きょう会かい」をつくり,本ほん格かく的てきに農のう村そん社しゃ会かい経けい済ざい史しや文ぶん献けんの研けん究きゅうを行おこないました。そして,『沖おき縄なわ文ぶん化か』を編へん集しゅう発はっ行こうし,戦せん後ごの沖おき縄なわ文ぶん化か研けん究きゅうの基き礎そをつくりました。西にし原はら町ちょうの偉い大だいな先せん人じんたち比ひ嘉が 春しゅん潮ちょう〔1883(明めい治じ16)年ねん~1977(昭しょう和わ52)年ねん〕本ほん名みょう:比ひ嘉が春しゅん朝ちょう/沖おき縄なわ歴れき史しの研けん究きゅう者しゃ。1959(昭しょう和わ34)年ねん,「沖おき縄なわタイムス賞しょう文ぶん化か賞しょう」受じゅ賞しょう。1972(昭しょう和わ47)年ねん,「沖おき縄なわ文ぶん化か功こう労ろう賞しょう」受じゅ賞しょう。主おもな著ちょ書しょに『沖おき縄なわの犯はん科か帳ちょう』〔崎さき浜はま秀ひで明あき共きょう編へん 1965(昭しょう和わ40)年ねん〕,『比ひ嘉が春しゅん潮ちょう全ぜん集しゅう』(全ぜん5巻かん)などがある。写しゃ真しん提てい供きょう:沖おき縄なわ県けん公こう文ぶん書しょ館かん科か事じ典てん』)1889(明めい治じ22)年ねん,7才さいの時に西にし原はら尋じん常じょう小しょう学がっ校こうに入にゅう学がくし,4年ねん間かんで修しゅう身しん,読どく書しょ,それから3年ねん後ご,校こう長ちょうを退たい職しょくした春しゅん潮ちょうは,沖おき縄なわ朝あさ日ひ新しん聞ぶんの記き者しゃになりました。そして,1923(大たい正しょう12)年ねんに東とう京きょうへ出でて改かい造ぞう社しゃの出しゅっ版ぱん部ぶに勤つとめ,その働はたらきを認みとめられました。編へん集しゅう者しゃとして働はたらく中なかで,柳やなぎ田た国くに男おと出で会あい,一いっ緒しょに『島しま』を編へん集しゅう発はっ行こうします。柳やなぎ田たの開ひらく勉べん強きょう会かいにも参さん加かした春しゅん潮ちょうは,戦せん中ちゅう,戦せん後ごと柳やなぎ田たのもとで民みん俗ぞく研けん究きゅうをすることになりました。さらに春しゅん潮ちょうは,戦せん後ご,機き関かん紙し『自じ由ゆう沖おき縄なわ』を編へん集しゅう発はっ行こうし,1947(昭しょう和わ22)年ねんには,278
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