わたしたちの西原町(3年・4年合冊版)
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幸こう市いちが病びょう気きになったあと,多おおくの県けん民みんがその回かい復ふくをいのりましたが,1982(昭しょう平たい良ら幸こう市いちは,西にし原はら町ちょうがほこる偉い人じんの一ひとり人です。和わ57)年ねん3月がつ5日にち,おしまれながら73才さいで亡なくなりました。平たい良ら幸こう市いちは,1909(明めい治じ42)年ねん,西にし原はら村そん(現げん在ざいの西にし原はら町ちょう)字あざ我が謝じゃに,平たい良ら家けの長ちょう男なんとして生うまれました。父ちち親おやの農のう業ぎょうを手て伝つだいながら一いっ生しょう懸けん命めい勉べん強きょうし,学がっ校こうの先せん生せいになろうと師し範はん学がっ校こうに進すすみます。そして,1928(昭しょう和わ3)年ねん,師し範はん学がっ校こうを卒そつ業ぎょうすると,中なか城ぐすく尋じん常じょう高こう等とう小しょう学がっ校こうの先せん生せいになりました。戦せんをむかえることになりました。それから幸こう市いちは,沖おき縄なわ民みん政せい府ふ文ぶん教きょう局きょく庶しょ務む課かに勤つとめ,戦せん争そうで荒あれ果はてた沖おき縄なわの教きょう育いくのために力ちからをつくすことになります。幸こう市いちが知ち事じとして行おこなった仕し事ごとには,大おおきなものが2つあります。一ひとつ目めは「産さん業ぎょうまつり」を始はじめたことです。これは,「沖おき縄なわ海かい洋よう博はく覧らん会かい」が終おわって,観かん光こう客きゃくが減へり,きびしい状じょう況きょうになっていた産さん業ぎょう界かいにとって,とてもよい効こう果かを発はっ揮きしました。そしてもう一ひとつは,交こう通つう方ほう法ほうを変へん更こうしたことです。沖おき縄なわ戦せん後ご,本ほん土どとは異ことなり,車くるまは道どう路ろの右みぎ側がわを通つう行こうしていました。しかし,1978(昭しょう和わ53)年ねん7月がつ30日にち,本ほん土どと同おなじように道どう路ろの左ひだり側がわを通つう行こうすることに変かわったのです。平たい良ら 幸こう市いち〔1909(明めい治じ42)年ねん~1982(昭しょう和わ57)年ねん〕写しゃ真しん提てい供きょう:那な覇は市し歴れき史し博はく物ぶつ館かん1944(昭しょう和わ19)年ねん,中なか城ぐすく村そん喜き舎しゃ場ば国こく民みん学がっ校こうの教きょう頭とうになり,そこで沖おき縄なわ戦せんの終しゅう1947(昭しょう和わ22)年ねん4月がつ30日にち,幸こう市いちは西にし原はら村そん第だい12代だい村そん長ちょうになりました。こうして政せい治じ家かとしての一いっ歩ぽを踏ふみ出だしたのです。その後ご,沖おき縄なわ民みん生せい議ぎ会かい議ぎ員いん(村そん長ちょうを兼けん務む),沖おき縄なわ群ぐん島とう議ぎ員いん,琉りゅう球きゅう政せい府ふ立りっ法ぽう委い員いん議ぎ員いん(8回かい),県けん議ぎ会かい議ぎ員いん(1回かい)と連れん続ぞくで当とう選せんし,沖おき縄なわのために一いっ生しょう懸けん命めいに働はたらきました。そして,1976(昭しょう和わ51)年ねん6月がつ,沖おき縄なわ県けん民みんの絶ぜつ大だいな支し持じをえて,本ほん土ど復ふっ帰き後ご2代だい目めの沖おき縄なわ県けん知ち事じになり,沖おき縄なわの社しゃ会かい,経けい済ざい,産さん業ぎょう,文ぶん化か,福ふく祉し等などのいろいろな問もん題だいの解かい決けつに取とり組くみました。このように,幸こう市いちは知ち事じとなってから,難むずかしい問もん題だいをたくさん解かい決けつしてきました。しかし,東とう京きょう出しゅっ張ちょう中ちゅうに病びょう気きになり,任にん期きの途と中ちゅうでしたが,1978(昭しょう和わ53)年ねん10月がつ23日にち,自みずから知ち事じを辞やめることにしました。279

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